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ミスタードラゴンズこと高木守道さんが
亡くなられました。

中日ファンにとっては
長嶋、王にも匹敵するヒーローです。

1974年の日本シリーズ第1戦、
レフトオーバーの逆転サヨナラヒットが
忘れられません。

中学生の頃、似顔絵に描いた星野仙もモリミチも
本当に思い出になってしまいました。

合掌。



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2020.01.26 Sun l 思い出 l COM(0) TB(0) l top ▲
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幼稚園に入るか入らない頃に
自宅の庭先で撮った写真を見て

グーグルマップのストリートビューで
かって暮らしたところを訪ねてみました。

バックに写っていた石垣は、
半世紀以上経った今でも
時間の流れに抗うように同じ形で残っていました。

長く変わらないで在り続ける。
それはそれで意味があることです。



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2019.06.04 Tue l 思い出 l COM(0) TB(0) l top ▲
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高校の時の同級生と
焼肉を食べに行きました。

卒業式以来かと思っていたら
昭和の終わり頃に一度再開していたようです。

それでも30年以上会っていませんでしたが、
話をしてみるとつい3日ぶりくらいの感じです。

よく学校帰りにバッティングセンターに
通ったものです。

マラソン大会の自主練として
夜中に堤防を走ったこともありました。

共学ならまた違った
思い出もあるのでしょうが、

男子校ならではの
ファールチップの軟式ボールが焦げた匂いみたいな
乾いた感じもそれなりに思い出です。

思いがけず
近くに住んでいることが判りましたので
またメシ、行きたいと思います。



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2018.08.28 Tue l 思い出 l COM(0) TB(0) l top ▲
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自分は漫画家になりたいと
かなり本気で考えていたと思っていましたが、

よくよく記憶をたどると
それは中学2年生から3年生頃のことで

高校生の頃にはそんな非現実的な
「夢」からは冷めていた自分なのでした。

オリジナルなものよりも
巨匠の名作を模写してみたり、

本気と言ってもまさに
「中二病」のレベルだった訳です。

練馬区に住んでいたワタナベ君の家まで
道具を抱えて出かけて

夜中まで根詰めて漫画を描きながら
お互いのペンネームを考えていたのは

それでも当時は紛れもなく「本気」な自分でした。

自分の運命を決めて行くのは

運とか偶然なんかではなく、
やはり必然なんだろうなと思います。



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2018.05.01 Tue l 思い出 l COM(1) TB(0) l top ▲
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おひな祭りとは何の関係もありませんが、

好きな俳優を二人あげるとすれば
渥美清と田宮二郎です。

コメディアンからテレビで売り出し、
そして映画俳優になった渥美清。
かたや、映画界を追放され
テレビに活躍の場を移していった田宮二郎。

紆余曲折、試行錯誤の末
二人の活躍は1970年代半ばに
ともにピークを迎えます。

民放が全局ネットで放送していた頃、
「ゆく年くる年」の総合司会が
76年は田宮二郎、77年は渥美清だったのは
当時の二人の人気絶頂ぶりを物語っています。

渥美清には「白い巨塔」は出来ないでしょうし、
田宮二郎にも「男はつらいよ」は演じられません。

しかし、一見全く違うような芝居でも
熱く演じると言うところは共通しています。

昭和の高度成長期終焉と言う
微妙な時代の波に翻弄されながら

まるで演じていた役に殉ずるように
二人の名優は消えてしまいました。

その人生は演じてきた役よりも
はるかにドラマチックな舞台でした。

もしもかなうなら、渥美清と田宮二郎の共演を
今、見てみたいと思うのです。



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2018.03.03 Sat l 思い出 l COM(0) TB(0) l top ▲
20180109 (2)

後楽園球場の三塁側内野席の前で
キャッチボールをしている星野仙に向かって
「ほしのー、ほしのー」と叫んでいると

星野仙は突然こっちを向き
「どうや、学校は楽しいか」と突然話しかけてきて、
驚いて周りをキョロキョロ見渡す自分に
「お前に聞いとるんだよ。しっかり返事せんか」と
少年ファンにも厳しかった星野仙一さん。

今は楽天の球団取締役副会長で
中日、阪神でも監督を務めた
星野仙一さんが1月4日に亡くなられました。

熱狂的な中日ファンで
「ドラゴンズとはすなわち星野仙」という感覚で
子ども時代を過ごした自分としては

中日の監督を辞めた直後の2002年、
阪神の監督に就任した時は「このやろう、裏切ったな」と
思ったものでしたが、
今となってはもうどうでもいいことです。

とにかく巨人のV10を阻んだ
1974年の中日ドラゴンズのエースであり、
リーグ優勝を決めたときの笑顔が忘れられません。

手強い相手にこそ、闘志を燃やして挑む姿は
多くのファンの生きる糧となっていました。

愛妻家だった星野さん。
奥さまと一緒に天国からプロ野球界を
厳しく見守ってくれることと信じています。



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2018.01.09 Tue l 思い出 l COM(0) TB(0) l top ▲
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仕事の後、雑務を片付けていると
診療所の電話が鳴った。

この時間にかかってくるのは
たいてい昼間拝見した患者さんからの問い合わせが多い。

見慣れない携帯番号だったが
受話器を取った。

高齢の女性だった。

最初はよく聞き取れなかったが
小学校低学年のときの担任の先生からだった。

昨年暮れに保土ヶ谷区の
介護付き有料老人ホームに入られたとのこと。

それまでは自分の診療所から
1キロ足らずの施設に数ヶ月だけだが
入所されていたそうだ。

自分の診療所の看板、広告を
ご覧になって「会いに行けば良かった」と
わざわざ電話を下さったのだ。

御年九十二歳。

転校して入学した自分のことを
細かく憶えていらっしゃることに驚く。

矍鑠とした口調でお話を伺っていると
記憶は半世紀昔に舞い戻った。

途端に両目から
理由もなく涙があふれて
別れの挨拶は声にならなかった。

先生、大丈夫です。
もう教科書をラクガキのマンガで
埋めつくすような真似はしていません。



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2018.01.06 Sat l 思い出 l COM(0) TB(0) l top ▲
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大学勤務時代、
高くもない給料を無駄に浪費していたせいで
「開業資金」と言えるような貯金は
全くありませんでした。

父の診療所を継ぐ訳でもないのに
別のところで開業するから
金を貸してくれと親にはとても言えません。

コンサルトのA氏に
「とにかく別のところで開業するにしても
 先立つものがないのです」と正直に言いました。

「先生、心配いりません。
 国民生活金融公庫に申請して
 独立開業資金を借りれば良いのです」と
いとも簡単に言うではありませんか。

当時はまだ子どももいなかったので
夫婦二人の気楽な暮らしでしたが、

自宅のローンで汲々としているのに
これ以上借金をしてだいじょうぶかと
心配は募るばかりです。

「診療圏調査では1日30人以上の
 外来が見込めるので、だいじょうぶです。
 借金は数年で完済できますよ」と
まるで雲をつかむような話でしたが、

気が付けばすっかりレールに乗り、
先代の院長との面接にまで至っていました。

小さい声で話される先代の院長と
A氏を交えて話しているうちに

現状の設備はそのまま譲渡するが
継承権にはいくら費用がかかるかなど
話はかなり具体的な内容に及んでいます。

いや、まだ開業を決めた訳では・・・と、
ぐずぐずしているうちに国民生活金融公庫にも
借入申込書と開業計画書を提出することになりました。

「現状の設備がそのまま使えるのであれば
 かなりの経費削減になるから、いい話かな」

その時は、ほとんどの設備を
入れ替えなければならないことになるとは
夢にも思っていませんでしたが、

すでに小さな手漕ぎボートは
湾内から波の高い外洋へと漂流し
自力で港に戻ることは出来なくなっていました。



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2017.12.09 Sat l 思い出 l COM(0) TB(0) l top ▲
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ここのところ、手足のしびれや
腰痛と戦いながら日々仕事に勤しむ毎日です。

土曜日の夜、診療が終わってから
アメリカンフットボール部の
先輩のご自宅までお迎えにあがって
食事会に行って来ました。

同じ時期に苦楽を共にした同級生や先輩と
2年前に亡くなった先輩を偲ぶ食事会。

しんみりした話ではなく楽しく懐かしい
思い出話に深夜まで花が咲きます。

スポーツ医学講座で教授になっている
同級生も一緒でした。

おまえはオレのように
アメリカンフットボールが原因で
「頚椎症性神経根症」や「脊柱管狭窄症」で
苦しんでいる症例を研究材料にしているのかと

毒づくことが出来るのも
同級生ならではのよしみと言う訳です。

まあ、自分のようにスポーツで身体を壊すなどとは
本末転倒も甚だしいことですが、

得難い経験が出来ると言うのも
一面事実であることは確かです。



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2017.11.27 Mon l 思い出 l COM(0) TB(0) l top ▲
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たまたま高校の後輩だった
開業コンサルタントのA氏は
早速、父の皮膚科クリニック近辺の
診療圏調査を行ってくれました。

立地は申し分ないが
エレベーターのないビルの3階で
レントゲン設備や内視鏡検査を行うには
スペースが致命的に狭いというレポートでした。

自分が開業するのであれば
皮膚科単科のまま一旦継承して時期をみて移転し、
その後に内科標榜することを勧められました。

結局、新しくしなければ
内科では開業は出来ないのか・・・。

少しがっかりしましたが
新規でクリニックを建てるための
先立つ資金もありませんし、

当時、大学で講師でしたから
まじめに定年まで勤めれば
助教授くらいにはなれるかなと
「開業」はあきらめたつもりでした。

ところが、2001年の暮も押し迫ったころ、
事態は急展開をしたのです。

「自宅の近くで後継者を探している
胃腸科の院長先生がいます。
 特段、ネガティブな要因はありません」という
メールがA氏から届いたのです。

「ネガティブな要因はない」などと
わざわざ書かれてあることが
今思えば怪しい感じなのですが、

通勤の帰りの教えられた住所に
行ってみました。

自宅から近くでしたが
こんなところにクリニックがあったのかと
初めて知った場所でした。

院長先生は高齢なので
目下のところ患者さんの数はセーブしているが、
診療圏調査ではまだまだ多く見込めるとの
「皮算用」を提示されて

一度はあきらめたつもりだった
「開業」へと再び、そして今度は本格的に
舵が切られたのでした。



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2017.11.24 Fri l 思い出 l COM(0) TB(0) l top ▲