マグカップ

「母の日」。

ドクターフリッカー2世は
幼稚園でマグカップを
お母さんに作ってきました。

ドクターフリッカーも子どものときは
おふくろに「母の日カード」とか
幼稚園で作ったものです。

おふくろは類を見ない方向音痴。

あれは百合ヶ丘に
住んでいた頃、
乗り過ごしていつの間にか
小田急線の車庫まで
ドクターフリッカーともども
連れて行かれたこともあります。

車掌さんの困った顔は
今でも覚えています。

親父と結婚する前に
東海道線で都内の学校や
職場に通っていたのに

品川駅から実家に
帰省しようとして迷子になった
こともありましたし、

平和島のプールに行くつもりで
バスに乗って渋谷まで
行ってしまったこともありました。

到着するまで
気が付かないのですから
相当なものです。

そんなおふくろが
自動車免許を取りたいと言い出したとき
親父は猛反対していましたが
そういう親父も自動車免許、
持っていませんでした。

親父が亡くなって
ホントに一人で暮らせるかと
心配しましたが、

何とか都内でポメラニアン2頭と
一緒に頑張っています。

いまや、
都内の地下鉄やバス路線は
ドクターフリッカーの知識をはるかに
凌駕していますから立派なものです。

おふくろはおふくろで
気楽に自由にやっているようですから
邪魔しない程度に

苦労をかけたおふくろに感謝しながら
親孝行のまね事をして行きたいと思います。



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2012.05.13 Sun l 思い出 l COM(0) TB(0) l top ▲
横浜スタジアム

野球好きの友人と
マーベルス」というチームを
作って草野球をしていました。

写っている打者は
小学生のようですが
写真のウラに
「1979年8月12日」と
書いてありますから高校生の時です。

憧れの「横浜スタジアム」。

抽選に当たって真夏に正午から2時間、
「浜スタ」を借りることが出来ました。

いや、暑くて大変でした。

相手チームは「江東青果」。
まるでノンプロのように
ガタイのいいお兄さんたち。

借りた2時間、
ほとんど守備の時間でした。

ま、バッティングセンターで打つだけで
ろくに練習もしていませんから
守備が長くなるのも仕方ありませんが、

外野にいると人工芝の
輻射熱でで意識が遠くなってきます。

ただでさえ暑い中、
よせばいいのにスライディングキャッチ。

人工芝って、すべるとホントに
ヤケドするんです。

バッターボックスには
1回だけ立つことが出来ましたが、
あろうことか、
初球に手を出してしまいました。

それにしても
この上半身のつっこみと腰の引け具合、
どうにかならないものでしょうか。

ヒットを打ったと書いておきたいですが、
実際はサードのファールフライ。
世の中、甘くありません。

フライでしたが悔しいのでファーストまで走って
わざわざベースを踏んでおきました。

料金は両チームのメンバーで割り勘でしたが、
確か一人1,000円くらいの破格のお値段です。

帰りに関内の駅前の喫茶店で
みんなでぐったりして無言のまま
アイスコーヒーを飲みました。



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2012.05.10 Thu l 思い出 l COM(0) TB(0) l top ▲
第一外科実習

大学に入った頃、
なかなか医学の授業は
始まりませんでした。

21世紀の今は
1年生から白衣を着て病院に行って
積極的に医療現場での実習を
何がしか行うようですが、

20世紀の医学部は
入学当初は一般教養の単位が
たくさんありました。

別に教養も
身につきませんでしたが
1年生のときは、
医学部らしい講義は
辛うじて「医学概論」という名の
学長自らの「お説教」だけでした。

昼ごはんなんかは
学食が混んでいる時には
大学病院の売店や食堂に
行くのが便利ですが、

学生の身分では
むやみに病院内に立ち入っては
いけない雰囲気でした。

2年生の終わり頃になって
ようやく基礎医学が始まり、
3年生でやっと臨床医学の講義に
たどり着いたのです。

5年生になると
臨床実習として医者と同じような
格好をして病院に入ることが
出来るようになります。

1年生のとき、
5年生の先輩に
「先輩、まるで医者のようですね」と
軽口をたたいたら、

「センセイと呼べ」と
叱られました。

今考えると、滑稽ですが、
1年生のときの5年生は
白衣が眩しくて
本当に天上人のようでした。

ですから、1986年、
自分が5年生になった時は
白衣を着れる嬉しさで

わざわざ、ワイシャツとネクタイを
買いに行きましたが
これも、今考えると失笑です。



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2012.04.25 Wed l 思い出 l COM(0) TB(0) l top ▲
ドクターフリッカー

高校のとき、親友が住んでいた
下宿がありました。

風呂はなくトイレは共同で
部屋には小さな流しが
付いていました。

無論、女子禁制です。

学校から近くだったので
悪友たちの溜まり場になりました。

下宿に住んでいるのは
高校生ばかりではありません。
浪人生や大学生もたくさんいました。

親友の部屋にたむろしていると
大抵、浪人生や大学生の
「先輩」がやってきます。

「お前ら、若いのー」とか
言ってタバコの煙をふーっと
かけられたりしたものです。

土曜日なんかに
徹夜でトランプの「大富豪」とか
つき合わされると
翌日の朝、喫茶店でモーニングを
驕ってくれました。

高校生だけでは入りにくい
喫茶店も浪人生や大学生の
「成人」と一緒なら入れます。

「ハッチ」とかいう名前の喫茶店。
まだ、あるのかな。

ドアを開けると「カランコロ〜ン♪♪」と
鐘が鳴る昔ながらの喫茶店です。

ああいうところで
延々と人生の先輩の話を聴くのは
けして無駄ではなかったと思います。

アフロの頭にボール紙で作った
自作の「早稲田の角帽」をかぶった
浪人生の「先輩」もいました。

「必勝!早稲田」と書いた紙を
机の前に貼っていましたが
違う大学に進学するあたりは
なかなか人間味溢れる先輩でした。

今は、昔ながらの喫茶店、
あんまり見かけませんね。

スターバックスもかっこいいですが、
ナポリタンセットとか食べられる
喫茶店が近くに欲しいなと
思う、今日この頃です。

下宿の先輩が言っていた通り、
確かにあの頃は
若かったんだなーと思います。



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2012.04.24 Tue l 思い出 l COM(0) TB(1) l top ▲
パスプロ

「パスプロ」とは
パス・プロテクション。

アメリカンフットボールで
パスを投げるクォーターバックを
プロテクトするオフェンスラインの
役目、仕事です。

パス、特にロングパスは
決まれば華麗です。

しかし、ロングパスを
投げるためには
レシーバーが遠くまで
走らなければならず、

必然的にクォーターバックの
ボールキープは長くなり、
それだけラインは身体を張って
パスプロをしなくてはなりません。

がんばって長くパスプロして
見事にロングパスが決まっても
スポットライトが当たるのは
クォーターバックとレシーバー。

万が一、ディフェンスライン、
もしくはラインバッカーが
メージラインを越えて侵入し、
クォーターバックが
タックルされてしまった場合、

これをQBサックと言いますが、

役目を果たせなかった不甲斐なさで
本当に申し訳ない気持ちになります。

しかし、オフェンスラインは
言い訳も出来ませんし、
する人もいません。

地味な縁の下の力持ち
「男」の仕事は寡黙なのです。

医者もそうです。
男は黙って仕事をする。

これが、医者たるものの理想の姿だと
常々、思っていますが、
なかなか、理想通りにはいきません。

え?上の写真、
パスプロがもれてる?

だから、言ったでしょ。
言い訳はしませんって。



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2012.04.21 Sat l 思い出 l COM(0) TB(0) l top ▲
SunHeights

一浪の末、
何とか大学に入学して
一人暮らしを始めました。

1K、いわゆる六畳間に
キッチンがあるアパートです。

バス、トイレ付きでしたが
何故かトイレを通過しないと
お風呂に入れない
不思議な間取りでした。

プッシュホンは
すでにある時代でしたが
黒のダイヤル電話を引きました。

当時の電話番号、
まだ、憶えています。

用もないのに
あちこちにかけては
夜中まで長電話をしました。

「ちょっと、
 トイレ行ってくるから待ってて」。
いったい何を話していたのでしょう。

ラジカセと実家にあった古いテレビを
もらって持って行きましたが、
空っぽの本棚だけが立派な部屋でした。

医学部に進学していた
高校の先輩から、教科書が多くて
本棚はすぐ足りなくなるから、

出来るだけ大きいのを
用意した方が良いと言われて
それだけは新調したのです。

世田谷街道沿いの
アパートでトラックが走ると
よく揺れました。

「サンハイツ」という
そのアパートは親父が
探してきてくれました。

駅からは遠いし、
近所に飲食店も少ないし、
何でまた、こんなとこかなと
少々、不満でしたが

19歳の春では
親の気持ちなんて
かけらも分っていなかったなと
思い出します。



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2012.04.03 Tue l 思い出 l COM(0) TB(0) l top ▲
ドクターフリッカー

母校のアメリカンフットボール部の
OB名簿。

創設間もない頃の
伝説化している先輩や
一緒にプレーをした
同級生、後輩たちの名前が
書き込まれています。

懐かしい先輩のお名前も
見つけました。

運動神経もさして良くない
ドクターフリッカーが
曲がりなりにも6年間、
プレーが出来たのは恩人である
二人の先輩によるものです。

3年生になった時のこと。

その先輩お二人は
ドクターフリッカーの講義が
終わるのを待ち構えていて、
強制的にグラウンドに
連れて行って下さいました。

「おーい、待ってたぞ」と
口は笑っていましたが、
目は獲物を捕らえる野獣のように
ギラギラと光っています。

「カンベンして欲しいな」と
正直、思いましたが、
とても断れる雰囲気ではありません。

ラインが3人ですから
フォーメーションやパスなどの
華やかな練習は出来ません。

フットボールなのにボールは
全く使わずにひたすらダミー。

ダミーとはブロックやタックルの
練習に使うサンドバックのことですが、
くる日くる日も
ダミー、ダミー、ダミー・・・。

正規の練習日以外も
毎日、毎日、先輩がダミーを支えて、
ブロック、タックルの練習。

そして、時には先輩が自ら
ワンワンの相手にもなってくれました。

ワンワンはお相撲で言えば
立会いのぶつかり稽古。

小さい身体で大きな相手に
勝つには出来るだけ低く、
下から突き上げるように当たれ、

ブロックは一撃必殺の
日本軍の特攻作戦と同じ
「菊水作戦」なのだと
教えて込まれました。

医学部の3年と言えば
勉強もかなり大変になってきます。
アメリカンフットボールばかり
やっている場合ではないのですが、
妙に集中して勉強もしました。

何ごとも変に余裕がないほうが
集中出来るのだと知りました。

とにかく、そのおかげで、
スターターとして試合に出て、
6年間を全うすることが
出来たわけです。

精神的にもひ弱なドクターフリッカーが
今、開業医として何とか
日々、働いていけるのは
ああいうことが礎なのかと
この歳になって思い出します。



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2012.03.20 Tue l 思い出 l COM(0) TB(0) l top ▲
Ambassador

レトロなクルマ、
エンスーなクルマに一時期
すごく憧れていました。

15年ほど昔のことですが、
インドの「アンバサダー」という
クルマを買おうとしたことが
ありました。

もともとはイギリスの
モーリス・オックスフォード。

第二次世界大戦が
終わって間もない1946年に
インドでも販売されるようになりました。

イギリス本土からのキットを
輸入してインドで組み立てられていた
「アンバサダー」。

50年代と言うのか、昭和的と言うのか、
そのレトロなボディラインが
たまらなく魅力的です。

本国での生産、販売が
終了しても、インドでは販売が続けられ、
日本でも正規輸入車が入手できると
雑誌で取り上げられていました。

いや、記事を読んだ瞬間、
もうスイッチが入ってしまったと言うか、
居ても立ってもいられなくなり、
確か、江東区の方のディーラーまで
見に行ったのです。

エンジンは日本製、
「いすゞ」のエンジンとのこと。

実車が一台あったので
試乗させてもらいました。
やけに重いハンドル。
トラックみたいなマニュアルギア。

普段、乗るにはあまりにも
非現実的でしたが、
2ヶ月後には新車が輸入されると
いうじゃないですか。

まさに「恋は盲目」です。

なんと驚くべきことに
納車までの代車の保証を条件に
乗って行ったクルマを
その場で売り払い、
「アンバサダー」を予約しました。

納車までの間、
代車として唯一あった
「アンバサダー」をお借りしました。

いや、注目度はかなりのものでした。

写真は友人の家に行ったとき、
もの珍しげにマンションの部屋から
撮ってくれたものです。

ボケた写真で見ると優雅な感じ、
かわいらしい感じもしますが、
実物は結構でかくてごついです。

納車を心待ちにしましたが、
結局、半年以上待っても
新車は輸入されず、
代車の「アンバサダー」を
戻して欲しいと言われたのです。

代わりのクルマが
セリカXXだったのはともかく
なんと「車検切れ」。

「車検切れ」の代車。

そこで「はっ」と我に返って、
手付金はあきらめて
そのディーラーとの交渉は
打ち切りました。

あのまま、待っていれば
「アンバサダー」を手に入れることが
出来たのか、

はたまた、車検切れのセリカXXを
運転して面倒なことになったのか。

今となっては分かりませんが
半年ほど乗った代車の「アンバサダー」。

三角窓が素敵でした。



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2012.03.16 Fri l 思い出 l COM(0) TB(0) l top ▲
石立鉄男

最近のテレビドラマは
とんと見ないので
よく知りませんが、
昔はよく見ていました。

子どもの頃、
テレビドラマのヒーローと言えば
石立鉄男さん、このひとの
右に出る人はいません。

「おくさまは18歳」、
「パパと呼ばないで」、
さらには「気になる嫁さん」、
「雑居時代」などなど。

共演は岡崎友紀に
松尾嘉代、榊原るみ、
そして大原麗子と
当時をときめくスター女優に
モテモテでした。

さしずめ、今だったら
キムタク級のかっこ良さでした。

石立鉄男さんの
コミカルに見えて、
情に厚い演技はまさに
あの頃の時代に
マッチしていたのでしょう。

なんと言いますか、
一作品、一作品に
魂がこもっていると言うか
心が通い合っていたと言うか、

登場人物の
人間描写がすごく丁寧で
安心して見ることが出来ました。

そう言えば、
先日、亡くなった
「寅さんのおばちゃん」
三崎千恵子さんも
「パパと呼ばないで」に
出演していましたっけ。

脇を固めるのも
プロ中のプロの俳優さん
ばかりでした。

時代が変わったと言えば
それまでですが、
昭和の頃の情感のあふれる
石立鉄男さんのドラマ。

今の時代こそ、
もう一度、見たいと思います。



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2012.02.22 Wed l 思い出 l COM(0) TB(0) l top ▲
ゲーム前

昨晩は同じ予備校から
母校に入学した同期と
一杯やりました。

二人とも身長が170センチにも
満たない小兵ですが、
入学と同時に何故か
アメリカンフットボールに入部。

1年生の頃は練習がつらくて
いつも辞める相談をしていましたが、
5年生のときは彼がキャプテンで
ドクターフリッカーはバイスを務めました。

結局、6年生まで公式戦はもちろん、
12月の新人戦まで出場して、
巨漢のアメリカンフットボール部の中で
二人の小さな選手は
力いっぱい燃え尽きました。

3年生のとき、
二部リーグで優勝したときは
チームにそれなりに貢献できたと
思いますが、

4年生のときは
オフェンス、ディフェンスとも
出場しなければならなくなり、
体力的にきつかったことに加えて
一部リーグのレベルの高さに
もがき苦しみました。

さらに、5年生。
バイスという責任ある立場でいながら
精彩を欠くプレーでOBからも
厳しく叱責されました。

ゲーム途中でベンチに
下げられたとき、帰りに涙も出ないほど
悔しかった思い出もあります。

不完全燃焼はキャプテンも
一緒だったのでしょう。

ですから、6年生になっても
何とか、この悔しさを晴らしたいと
練習にも極力参加しました。

夜間照明の下での練習が終わると
8時過ぎから図書館で閉館まで
二人で勉強しました。

試合のときもホームでも
遠征でも必ず、大学に戻って
図書館、あるいは、深夜の学食で
警備員さんに電気を消されるまで
勉強したものです。

これで6年生のとき、
チームが躍進すれば
ドラマチックですが、

現実は厳しく、1分け4敗で
得失点差で翌年からの
2部降格が決まったのでした。

まあ、世の中はそんなにうまくは
行きませんが、結果は結果です。
仕方がありません。

それよりあの時、
5年生で引退していたら
きっと、すごく後悔していたでしょう。

医者になった後は
内科と整形外科と違う道を
歩みました。

四半世紀も昔のことですが、
昨日のことのように語り合った夜でした。



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2012.02.16 Thu l 思い出 l COM(0) TB(0) l top ▲