
医者になった頃は
まだ「がん」の告知には
かなり神経質になりました。
まず、ご本人には内密に
ご家族をお呼びして
病状の説明をしたものです。
ご家族はほぼ9割方、
ご本人への告知は拒否される
時代でした。
入院して治療を行っているのに
次第に病状は悪くなっていくという
最悪の循環に陥ります。
自分が最初にご本人に「がん」と
はっきりも申し上げた方は
「膵臓がん」でした。
初診の外来は自分でしたが
他の大学病院の医者とケンカして
こちらの外来に来られました。
どうやら入院して一悶着あったようです。
紹介状もありませんが、
顔は黄色く、ただ事ではありません。
外来で検査を行うと腫瘍マーカーや画像検査で
手の施しようがない状態でした。
抗がん剤による化学療法、
特にステージが進んだ状態での
治療は今ほど進んではいない時代です。
「緩和ケア」などという言葉も
まだ一般的ではありませんでした。
黄疸が出て、食事が摂れず、
何より痛みもあるので
前の病院でのことも考えた上で
ご本人に「かなり進んだ膵臓がん」と
ご説明して入院を勧めました。
余命は3ヶ月程度と思いましたが
半年と申し上げました。
「やっぱりな・・・」と
ご本人がつぶやかれたのを
はっきり憶えています。
こちらの消化器内科の病棟でも
ベッドに敷くマッサージ機と
でかいラジカセを持参して入院。
マッサージ機の
ブーンブーンという振動音と
ヘッドフォンから漏れる
シャカシャカした音が問題となり、
他の患者さんから苦情が出ました。
婦長さんや病棟長の先生と
すったもんだの挙句、
なんとかマッサージ機とラジカセを
撤去してもらいました。
今だったら苦情が出る前に
注意すべきだったと思いますが、
大部屋の患者さんのカーテンの内側は
患者さんそれぞれにとっての
せめてもの自分の空間で
持参したものをいきなり取り上げることは
出来ませんでした。
その後も患者さんのためと思って
お話していることにも揚げ足を取られ、
こちらも若かったせいか、
本当に色んなことがありました。
当時としては思い切った化学療法と
放射線療法の併用で
黄疸も改善、痛みもなくなって
お食事も少しずつ
召し上がれるようなりました。
「もう、まずいメシはいらねー」と仰り、
3ヶ月の入院生活は終了。
約半年、外来で化学療法を継続しました。
「よう、半年って言ったじゃねーか」と
軽口も言える程、順調に見えましたが、
初診から約1年。
再び黄疸が出て化学療法は中止。
食事もほとんど摂れなくなりましたが、
「もう、入院は勘弁してくれや」と
外来でブドウ糖とビタミンの点滴をするように
なりました。
最後に外来に来られたとき、
「俺はもう飲めないから」と
高いウイスキーをたくさん持って来られました。
点滴を刺したとき、
「あー、そう言や、
せんせー、飲まないんだっけか?」と
ニヤリと笑った顔は忘れません。
人生の半分を
医者として過ごして来ました。
これから生きている限りは
医者ではなかった時間の
割合はどんどん少なくなりますが、
医学の進歩に付いていくことも
大変ですが、患者さんとの関わりも
長くやればやるほど
難しいものだと解ってきます。


↑↑共感して頂けたら、クリックお願いします。