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ドクターフリッカーが
入局した「第二内科」。
昨晩、
「第二内科」の消化器・肝臓グループの
OB会、「霜月会」なる会が
川崎でありました。
診療終了後にいそいで
行きましたが、大幅な遅刻。
「なんだ、おまえ、
遅れてくるとは、偉くなったじゃないか。」
といきなり、カウンターパンチです。
もともと、
「第二内科」の創設期、
消化器・肝臓グループでトップだった教授に
指導を受けた先生がたの集まりだったのですが、
いつの間にか、
ドクターフリッカーあたりの世代まで
お声をかけて頂くようになりました。
母校の「第二内科」は
昭和48年4月に教室が開設され、
その当時からいる猛者、おっとと、
先輩の先生方が、年に一回、
旧交を温めるのです。
昭和48年と言えば、
ドクターフリッカー、
まだ小学5年生。
そんな創設期の先生がたの
お若いときの苦労話。
途中から「日露戦争」の話でも
聞いてるような気がしてきました。
しかし、
ドクターフリッカーの
博士号取得の論文テーマも
すでにその頃から
萌芽があったりするのです。
今は、町医者でも測定できる
さまざまな肝酵素ひとつにしても、
いっぱしに「ガンマジーティーピー」
とか、当たり前に言ってますが、
当時、「γ-glutamyltranspeptidase」
のもつ臨床的な意義なんて
誰もわからなかったのです。
たまには
先輩の苦労話を伺って、
今、当たり前にやっている臨床は
多くの先生がたのご苦労の礎の上に
成り立っているのだということを
かみしめなければいけません。
昔はもとからあった医学部(その頂点があざみ野棒屋先生の出身大学ですが)に対して「新設校」とよばれていました。
さすがに今では何代かを経て歴史ができてきましたが、自分が在籍していた頃は、自分より上の方々とは皆知り合いみたいな感じでしたね。