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昨晩は新横浜。
母校のアメリカンフットボール部の
OB会でした。
土曜日は夕方の血液検体の回収が
午後8時前なので、とても定時には
診療所を出ることが出来ません。
一次会の最後にすべり込んで
しっかり、現役諸君のために
「カンパ」をして来ました。
ドクターフリッカーは1年生の秋、
公式戦にデビューしました。
付けていた番号は「29」。
ディフェンスバックとして
確か、座間の米軍基地内の
グラウンドでした。
相手は当時の強豪、K里大。
中央突破のランプレーの連続で
ズルズル後退したことを覚えています。
レシーバーにタックルしても
「ボールを狙え」と怒られました。
3年生からはガードとラインバッカーに
ポジションが変わり、番号も「62」と
でかくなりました。
J医科大を破って二部優勝を決めたゲームは
もちろん、一生の宝物ですが、
狛江のグラウンドで行ったT大戦で
初めて、相手のクォーターバックを
メージラインのはるか後方でタックルした
「クォーターサック」の快感も
忘れられません。
6年生になり、バイスキャプテンも降りて
ガードから再びボールを持てる
ランニングバックをさせてもらいました。
番号は「42」に変わり、
T歯科大戦では47ヤード走って
足がつったこともありました。
いい思い出ばかりではありません。
「フリーフリッカー」を決められたのは
まだ、2年生の時でしたが、
5年生で「主力」である時に
S医科大に「キックオフリターンタッチダウン」を
決められて、チャージを出していた
ドクターフリッカーはベンチに
下げられたこともあります。
OB会の重鎮の先生方の話を
聴きながら、「現役」の学生諸君の顔を
眺めて、ドクターフリッカーも
はるか昔の「現役」の頃を
思い出していました。
アメリカンフットボールも
学生だった当時はプレーできることや
いい先輩やかわいい後輩に恵まれたことなど
「感謝」の気持ちも抱きませんでしたが、
しかし、昨晩のようにOB会なんかに行くと
時間は戻ってきてはくれないものだと、
つくづく、思います。
その内、いつかは「診療所」も引退する時が
来るのでしょう。
今を「感謝」して精一杯、仕事をしなければ
いけません。
それにしても、OBの先輩がた、
同じエピソードを繰り返し語り合い
笑い転げているところは28年前と
少しも変わりません。